コンプライアンス
信頼の失墜がないよう、法令、内規、またモラルに従って行動することを言う。
主に企業が存続するために必要な概念として浸透しているけれど、従業員一人一人の行動もSNSで簡単に拡散される今、コンプライアンス遵守は一人一人に求められる。
なんだ、当たり前じゃないか、と言われれば当たり前の話。ましてやサラリーマンは、会社に雇われている以上、基本的に会社が決めたルールを守るべきである。
ただ、行き過ぎると息苦しい。
正論を盾に身動きの取れない社会になってはしないかい?局所最適になってないかい? つまり、1つ1つは正しいんだけど、積み上げると奇怪なものになってないかい?
これまで、ぼやかしの文化で生きてきて、ルールとかあまり作らずに、調和で暮らしてきて、そこに欧米のルール主義が中途半端に入ってきて、気づけば全体を見ずにギチギチになってないかい?
ドイツでは、夜中と日曜日に店を開いてはいけない。何故なら、個人商店が太刀打ちできないし、夜働いている人が家族の時間を取らなくなるから。
バーベキューは月一回まで。やり過ぎると迷惑だけど、全廃は楽しくないから。
日本は、こんなうまい感じのルール作れることのかな。
ルール主義なら、こうして考えるべきである。と思う。
大切だけど、真面目にキッチリやると辛くて息苦しい。もう少し楽しく生きたいと思う。
桐谷健太さんがそろそろ海の声を聞けたんじゃないかと思う件
歌番組で、桐谷健太さんが「海の声」を海辺で歌っているのをよく見る。
今日はとうとう船の上で歌っていた。
そろそろ、海の声を聞けたんじゃないかと思う。
それだけ。
子育てSNS
昔、おしゃれなランチや、アウトドアの写真をアップしていた意識の高い友人?達が、今は子どもの写真をアップしている。
「寝返りをしました。こういう成長を見ると、子どもを育ててるつもりで自分が育てられるんだなぁ、と思ったりする」
もはや意味不明だ。
それに対するコメントが、「そうやってちゃんと変化に気付けるママ尊敬だよ」だとさ。
我が子が寝返りするようになればママなら誰でも気づく。
ママは偉いか?
何をもって偉いというかに尽きる。
働くお父さんは偉い。一生懸命遊ぶ子どもは偉い。働き終えてゆっくり余生を過ごしているお年寄りは偉い。そういう意味では、ママは偉い。
でも、そういう人たちに1人ずつ、「私、あなたを尊敬します」って言っている一般人を僕は信用できない。違和感がある。必要以上の自己主張は否定しづらい故に厄介だと思う。
僕はひねくれ者?まぁそうなんだろうな。。
受け入れること
街を歩く人たちを見ていると、それは色々な人がいて、通り過ぎる人たちを僕は外見しか分からないけど、本当に色々なわけで。
僕は外見にコンプレックスをたくさん抱えてるんだけど、例えば髪の毛の量が少なくて毛が細くて汗かくとぺちゃんこになることとか、頭が少し大きくて脚が少し短いこととか、身長が少し低いこととか。まぁ他にも上げればキリがないほどあるんだけど、何とか良いところや良い環境も少し与えられたので、それでやりくりして存在を肯定している。
みんなはどう生きてるのだろう?僕がこの人だったらどう生きるだろう?何を思っているのだろう?彼の幸せはどこにあるのだろう?僕はそう考えながら生きてる。他人の人生をよく知りもせず、勝手に点数をつけて、この人よりはマシ、あの人には完敗…と思いきや裏では大変な可能性ありで引き分け、そうして生きてる。
他人のことなんて気にせず、なんていう人はいるけれど、もちろんそれが正しいという理由は良く分かるけど、ずっと他人と比較して生きるのは辛いけど、僕の思考は比較から生まれる。
比較しなければ何も決められない。
そんな人が、完全に自分を受け入れる日はいつ来るのだろうか。皆はどうやってやりくりしてるのだろうか?それともそんなこと考えてないのだろうか?
皆、現状をどう受け止めているのだろう?
あぁ、シッダルータを読もう。